彼女の志望動機
趣味ではじめたような「イイダ傘店」
今でこそ少しは名前を知っている人も増えたと思うし、活動も知られてきた。
当たり前の話だが、立ち上げた当時は誰も知らないし、イイダ傘店で何度検索しても検索結果が0件だった時代があった。
続けていくうちに少しづつ情報が生まれはじめたが、それでも初期の展示会に足を運んでくれた人やオーダーしてくれた人を思い返すと、どこで知ってきてくれていたんだろう?と今でも不思議でならない。
こんな傘店を知っていること自体が信じがたいその頃、うちで仕事をしたいという1通のメールが届いた。
当時はもちろん募集なんてしてなかったし思ってもいなかった。
関西の子からの連絡に、遠方だし会うこともできずに、そもそもそんな余裕がないことを伝えるしかできなかった。
しかし、メールに書かれていた志望動機は独特なもので、しばらく心に引っかかっていた。
その後、半年くらいだろうか、製造業に近いこの趣味はやり始めてみると手が足りなくなってきて仕事になってきた。誰か手伝ってくれないかなあ、と思い出したのは関西の彼女だった。連絡してみると、歳月があいたにもかかわらず、今の仕事を辞めて上京するために動きます、との返事が来た。
初めてのスタッフが決まり、嬉しくて周りに話してみて気がついたのは、彼女の事を何も知らないということ。経歴や住所も、顔も年齢もわからなかった。
知っているのは名前と性別、そして志望動機くらいだったろうか。しかしその時はそんな事は気にしていなかった。
数日経ったころ、挨拶にと僕の住んでいたアパートにやってきた。
関西から夜行バスで来たという。布団とミシンが並んでいるアパートの一室で、2人で正座をして、ここで傘を作っているんですみたいな話をしたと記憶している。
帰りに近くの不動産屋に立ち寄り、事情を話して紹介された1つ目の物件に、場所も部屋も見ずに契約して、その日の夜行バスで帰っていった。
その後引っ越してきて、うちのアパートに通うようになった。
初めは月給5万、しばらくして倍になったけどそれでも10万、よくやってくれたなと思う。なんせ僕が別の仕事をかけ持っていた。ちぐはぐもいいところである。
2人で仕事をするというのは、傘店の何もかもを2人でやるしかないということだった。もう少し言うと、僕がやること以外の全てを彼女がやってくれていた。表向きは僕がやっている傘店だけど、実際の実務というか、中身のある仕事をこなしているのは僕だけではなかった。おそらく僕よりも長く針を持ち、長くミシンに向かい、長く裁断台に向かい、多くの傘を作ってきた。書くのは簡単だけど、傘作りにまつわる地味な仕事を何時間もすること、そういう雑務を毎日やること、それは本当に並大抵のことではない。
細かな縫いの仕事や、オーダー傘の梱包や発送、小物の管理などは僕も真似できない仕事になっていった。
ある日、アトリエで取材を受けていた時、たまたま隣でしていた梱包の手際の美しさに編集さんが感心して、取材の話がそっちに逸れたこともあるくらい、彼女の¨雑務¨は目を見張るものがあった。
そうやって続けてきた結果、今のイイダ傘店が出来てきた。
何がダメかを見極める心を持っていた彼女には、迷った時にはよく相談をした。意見が違う時やぶつかった時には関西弁で強く言われることもあり、常に僕より先を見て、進む方を見据えていたように思う。
イイダ傘店として10年やって、これからどうやっていこうと思う今も、軸になっているのは、以前彼女がくれたメールの志望動機である。
・手で作るもの
・修繕しながら残っていくもの
・時代に左右されないこと
・需要があるもの
・自分が好きだと思えるものであること
¨傘¨が全く登場しないこの志望動機は、その後応募してきた何十人ものそれとは全く異なる内容だったことは今だからわかることだ。
この項目は今も色あせないし、僕も言葉にできなかったことで、結局これに引っ張られていくだろう。
11年目、いろいろ変わりながらイイダ傘店は続いていく。この挑戦ができたのも彼女の決断がきっかけになっている。いろんなことを考えながら陰で黙々と動いている彼女には、いつまでたっても追いつけない。
今でこそ少しは名前を知っている人も増えたと思うし、活動も知られてきた。
当たり前の話だが、立ち上げた当時は誰も知らないし、イイダ傘店で何度検索しても検索結果が0件だった時代があった。
続けていくうちに少しづつ情報が生まれはじめたが、それでも初期の展示会に足を運んでくれた人やオーダーしてくれた人を思い返すと、どこで知ってきてくれていたんだろう?と今でも不思議でならない。
こんな傘店を知っていること自体が信じがたいその頃、うちで仕事をしたいという1通のメールが届いた。
当時はもちろん募集なんてしてなかったし思ってもいなかった。
関西の子からの連絡に、遠方だし会うこともできずに、そもそもそんな余裕がないことを伝えるしかできなかった。
しかし、メールに書かれていた志望動機は独特なもので、しばらく心に引っかかっていた。
その後、半年くらいだろうか、製造業に近いこの趣味はやり始めてみると手が足りなくなってきて仕事になってきた。誰か手伝ってくれないかなあ、と思い出したのは関西の彼女だった。連絡してみると、歳月があいたにもかかわらず、今の仕事を辞めて上京するために動きます、との返事が来た。
初めてのスタッフが決まり、嬉しくて周りに話してみて気がついたのは、彼女の事を何も知らないということ。経歴や住所も、顔も年齢もわからなかった。
知っているのは名前と性別、そして志望動機くらいだったろうか。しかしその時はそんな事は気にしていなかった。
数日経ったころ、挨拶にと僕の住んでいたアパートにやってきた。
関西から夜行バスで来たという。布団とミシンが並んでいるアパートの一室で、2人で正座をして、ここで傘を作っているんですみたいな話をしたと記憶している。
帰りに近くの不動産屋に立ち寄り、事情を話して紹介された1つ目の物件に、場所も部屋も見ずに契約して、その日の夜行バスで帰っていった。
その後引っ越してきて、うちのアパートに通うようになった。
初めは月給5万、しばらくして倍になったけどそれでも10万、よくやってくれたなと思う。なんせ僕が別の仕事をかけ持っていた。ちぐはぐもいいところである。
2人で仕事をするというのは、傘店の何もかもを2人でやるしかないということだった。もう少し言うと、僕がやること以外の全てを彼女がやってくれていた。表向きは僕がやっている傘店だけど、実際の実務というか、中身のある仕事をこなしているのは僕だけではなかった。おそらく僕よりも長く針を持ち、長くミシンに向かい、長く裁断台に向かい、多くの傘を作ってきた。書くのは簡単だけど、傘作りにまつわる地味な仕事を何時間もすること、そういう雑務を毎日やること、それは本当に並大抵のことではない。
細かな縫いの仕事や、オーダー傘の梱包や発送、小物の管理などは僕も真似できない仕事になっていった。
ある日、アトリエで取材を受けていた時、たまたま隣でしていた梱包の手際の美しさに編集さんが感心して、取材の話がそっちに逸れたこともあるくらい、彼女の¨雑務¨は目を見張るものがあった。
そうやって続けてきた結果、今のイイダ傘店が出来てきた。
何がダメかを見極める心を持っていた彼女には、迷った時にはよく相談をした。意見が違う時やぶつかった時には関西弁で強く言われることもあり、常に僕より先を見て、進む方を見据えていたように思う。
イイダ傘店として10年やって、これからどうやっていこうと思う今も、軸になっているのは、以前彼女がくれたメールの志望動機である。
・手で作るもの
・修繕しながら残っていくもの
・時代に左右されないこと
・需要があるもの
・自分が好きだと思えるものであること
¨傘¨が全く登場しないこの志望動機は、その後応募してきた何十人ものそれとは全く異なる内容だったことは今だからわかることだ。
この項目は今も色あせないし、僕も言葉にできなかったことで、結局これに引っ張られていくだろう。
11年目、いろいろ変わりながらイイダ傘店は続いていく。この挑戦ができたのも彼女の決断がきっかけになっている。いろんなことを考えながら陰で黙々と動いている彼女には、いつまでたっても追いつけない。
2016-04-11 11:28
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